真実
- 古川和子
- 2018年7月9日
- 読了時間: 2分
先般からオウム真理教元幹部の死刑執行が衝撃的なニュースとして伝わってきました。
私はオウム真理教のニュースを聞くたびに思い出すことが有ります。
昔(古希を迎えた私の若い頃)、「〇〇教会」、そして「〇〇の証人」の信者の方と意見交換を行った経験があります。
彼らは大変熱心に「真実はひとつだけ」とか、「ハルマゲドン(世界の終末)がやってくる」と語りました。
あるとき私は「真実はひとつだけじゃないでしょう。それぞれの人が信じていること、それがその人にとっての真実です」と反論しました。
信者たちが熱心にに説明しましたが、頑固な私は決して持論を翻すことなく、その場を立ち去り、二度とその会合には参加しませんでした。
「ハルマゲドン」は聖書を知らない私は少し恐怖感を覚え、上記の時以上に関心を持ちました。
でも…やっぱり気持ちがすっきりしなかったのです。
「世界の終わりが来るなら、何とか助かりたい。ノアの箱舟にも乗りたい」と思いました。
が…ここでも不届きな考えが起こったのです。
「自分だけ助かっても嬉しくない」と。
「だから……」という説得も、私には功を奏さなかったのです。
オウム真理教の名前を聞いたのはその後かなり経ってからでした。
そして私は心ひそかに「ひとつの事を信じて貫ける方は偉い。私なんて、信仰心のカケラも無いのだ」と自己嫌悪を覚えたこともあります。
しかしその後次々と発生した凶悪事件に、唖然としました。
そして思いました。
たとえ信仰心が希薄でも、私は自分の信じたことをやってきたのだ。
それで良かったのだ、と。
真実はそれぞれの心の中にあり、それぞれが大切にしている信念であると思います。
日常生活の中において、つい相手にも自分の考えを押し付けそうになりますがそれは間違っているのです。
いえ、当の本人にしたら「間違っていない」というのが真実の心でしょう。
そこで一呼吸おいて考えてみたいと思います。
自分にとっての真実、あるいは大義。
でも他の人にとっても真実があり、大義があるのです。
いかにより多くの「真実」に触れることが出来るか…それがいまの私の喜びであり、今後の心の糧になるのだと信じています。
Comments