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駅伝

  • 執筆者の写真: 古川和子
    古川和子
  • 2018年1月3日
  • 読了時間: 3分

正月の恒例行事として「駅伝」があります。

おとなしく自宅にいた私は、連日テレビの駅伝を観ていました。

そこで、ふと思い浮かんだ記事をご紹介します。

年末のある日「yahooニュース」で目にした記事です。

「トヨタが今でも社内駅伝を続けている理由」と題して安井 孝之氏(Gemba Lab代表、経済ジャーナリスト)の記事が掲載されています。

この中で私の独断と偏見により、抜粋してご紹介します。

■「今日から血みどろの苦闘が幾年も続く」

 トヨタの社内駅伝大会が始まったのは敗戦から2年目の1947年。社員は6345人で国内の生産台数は3922台にすぎなかった。社員数は現在(約34万人、連結)の50分の1、生産台数は現在(1000万台、連結)の2500分の1の規模だった。それでも第一回の駅伝大会には数十チームが参加した。

 このころのトヨタには確かな将来が見えてはいなかっただろう。社内駅伝の開催趣旨も「スポーツを通じて働く意欲を盛り上げ、職場の団結をより強くしよう」だった。

 現在の豊田章男社長の祖父に当たる豊田喜一郎社長(当時)は46年5月、「自動車工業の現状とトヨタ自動車の進路」と題した講演でこう語っている。  「恐らく今日から血みどろの苦闘が幾年も続く事でしょうが、私個人としても倒れるまで死力をつくすつもりであります」  その後、「ドッジ不況」(49年)、労働争議を経て、50年に喜一郎社長が経営責任を取って、退任。社長復帰を目前にした52年3月に亡くなったのだから、「倒れるまで死力を尽くすつもり」を図らずも果たした人生だった。  そういった苦境の中で生まれた社内駅伝である。

■安全なことだけをして、襷はわたせない

 最近、日本メーカーで相次いでいる検査不正や品質保証の不正を起こした一因は、経営と現場の認識が乖離(かいり)していたことがあげられる。経営と現場との間の一体感こそが厳しいレースを完走する条件となる。  友山専務役員は駅伝会場で「年に一回ですが、いろいろな職場の同僚と一緒になって戦い、応援するという一体感は貴重です。一体感があれば、危機の時、すぐにみんなが一斉に対応できると思います」と語った。  昨年の夏、豊田社長は筆者に「襷」という言葉を使って、今、チャレンジする意味を語ったことがある。

 「(自動車産業への参入を決めた)トヨタも、とんでもないリスクを先人(豊田喜一郎氏ら)が取ったのです。先人たちはリスクを取っただけで何もいいところを見ずに襷を渡した。それを渡されたわれわれが、リスク、リスクと言って何もせず、安全なことだけをして次に襷を渡したら、将来の人たちに『あの時、停滞したせいで成長が止まっちゃった』と言われてしまう。それよりも『あの時、苦労はあったらしいが、おかげで礎ができたね』と言われたい。継承者というのは絶えず挑戦を続けることだと思います」(カッコ内は筆者)。  社員らが一心不乱に襷を渡す社内駅伝を、トヨタは決して止めるわけにはいかないゆえんである。

駅伝を観ていてこの記事を思い出しました。

まさに私と仲間のみなさんがやってきたこと、今後もやろうとしていることと同じだったからです。

私たちの活動は駅伝と一緒だったのです。

『あの時、苦労はあったらしいが、おかげで礎ができたね』という確かな手応えを将来に残したいから、いま頑張っているのです。

私もまた「継承者というのは絶えず挑戦を続けることだと思います」という姿勢を持ち続けることを新たに誓いました。


 
 
 

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