訃報の続き
- 古川和子
- 2017年12月30日
- 読了時間: 2分
塩見幸治さんのさんの訃報以後、相次いで3人の方から連絡が有りました。
Mさんは、中皮腫の手術は大成功していたのにインフルエンザによる急性肺炎で急逝されました。
なんということ…一瞬ことばを失いました。
Aさんは懸命の闘病も空しく、本当に残念でした。
もうひとりは私の叔父の連れ合いである叔母でした。
「え、この夏には元気で会話したのに」と急逝の報に、弟たち家族も面食らっていました。
いままで、多くの方の最期に出会ってきました。
え、そんな!?…と驚かされる局面もたくさんありました。
でも私は「人間はそんなに簡単には死なない」と思っています。
病魔に侵されて、「もうだめだ」と諦めの言葉を吐露する方も多く出会いました。
しかし数年後に「まだ生きている」と、笑っている方もまた多く会います。
いま元気にしている方が不慮の事故で…ということも毎日のニュースで流れています。
いつまで命が続くのか、神様しか知らないのではないでしょうか。
自分の命さえも自由に操れないのが人間です。
それならば、いまのこの時を精いっぱい生きてみよう、と思います。
苦しいこともあります。
はらわたが煮えくり返る、という言葉にあるように本当に腹立たしく悔しこともあります。
でもささやかな喜びもあります。
こんなことが!…と感動する出来事もあります。
生きていればこそ、手を取り合って泣くことも笑うこともできるのです。
樋野興夫先生の言葉のとおり「5年後に死ぬ」と思って生活すれば、「いまのこの瞬間が5年前」なのです。
たとえもっと短くたっていい。
いまのこの瞬間が2年後でもいい。
その2年間は幸せな時間が送れるのだから。
私は昔から心に決めていました。
「自分が死ぬときには『いい人生だった』と思って死にたい」と。
そのための免罪符?が如くに、自由気ままな人生を送ってきたような気がします。
70歳を迎えて、「これでよかったのだ」と思えることは私は幸福者なのでしょう。
多くの方が自身の命をかけて、後に続く私たちに「生きること」の意味を教えてくれているのだと思います。
「命の重み」という言葉を聞きますが、重みはみな同じです。
その長さに関係なく「どう過ごしたのか」を伝え、この世に存在していた意味を後世に伝えることが
未来永劫繰り返される命の営みなのです。
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